ヴァイマル共和政
第一次世界大戦後、ロシア革命に影響されて起ったドイツ革命によって、ドイツ帝国は崩壊・敗戦へと追い込まれた。帝政崩
壊後の中心勢力となったドイツ社会民主党は、共和制に基づく新政府樹立を果たした。その後、議会制民主主義の枠組みを尊
重した社会民主党は、これ以上の革命の急進化を望まず、スパルタクス団(ドイツ共産党)の1月蜂起を義勇軍を用いて武力鎮
圧する。スパルタクス団の中心人物であったローザ・ルクセンブルクや、カール・リープクネヒトはこの際に惨殺される。
そして1919年、ヴァイマルにおける国民議会で近代憲法の先駆けとされるヴァイマル憲法(WRV:Weimarer Reichsverfassung
)が採択され、ヴァイマル共和政が成立した。
復興の遅れ
しかし、共和国政府の権力基盤は不安定であった。上のような経緯があったために急進的左派勢力と敵対する一方で、屈辱的
なヴェルサイユ条約を受け入れて過酷な軍縮を行ったことは、急進的右派勢力からも激しい批判を受け、一部の軍人はカップ
一揆を引き起こした。1921年には、連合国によるロンドン会議において1320億金マルクという巨額の賠償金が定められた上、
オーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票において、ドイツ帰属が多数(60%以上)だったにもかかわらず、地下資
源が豊富な地域がポーランドに割譲されることになり、ドイツ国民のヴェルサイユ体制への反感を高めさせた。賠償額が決定
された1921年の段階では、政府は諸外国の要求にできる限り応じる「履行政策」を採ったが、1922年の後半になると履行政策
は放棄され、賠償に含まれていた石炭引き渡しが遅滞し始めた。これに対してイギリスの反対を押し切ってフランス、ベルギ
ーが実力行使に出て、1923年にルール地方が軍事占領された。
ルール占領は、ドイツ最大の工業地帯が経済的にドイツから切り離されることを意味していた。これによってドイツは石炭の
輸出国から輸入国へと転落し、外貨準備の多くが失われた。政府はルール地方の住民にサボタージュを通じた抵抗を勧めたが
、ルール住民への経済支援はドイツ財政上の重い負担となり、既に大戦中よりインフレが進行していたドイツ経済に致命的な
打撃を与えた。インフレは絶望的に加速し、空前絶後の物価高騰が市民生活を破壊した。一部の急進的な右派勢力は、ルール
地方でフランス兵士への攻撃や輸送手段の妨害などといった武力抵抗を行い処刑され、のちのナチス政権において伝説化され
た。こうした中、ミュンヘンではナチス党首のアドルフ・ヒトラーがミュンヘン一揆を起こした。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ヴァイマル共和政はヴァイマル憲法に基づいているそうです。